Ⅰ.貧困を考えることの意味 Ⅱ 現代の貧困の特徴 Ⅲ 現代の貧困化の構造
Ⅳ 突き当たった「最低生活の岩盤」 Ⅴ ナショナル・ミニマムの体系
Ⅵ ナショナル・ミニマムの機軸としても「最低生計費」
講師: 佛教大学 社会学部 教授 金澤 誠一 氏
■日時:2007年7月9日(月) ■場所:大阪府社会福祉会館3階第3会議室
『現代の貧困と「最低生活の岩盤」』
Ⅴ ナショナル・ミニマムの体系
1.「健康で文化的な最低限度の生活」の意味内容を考える
次に、ナショナル・ミニマムの体系について考えてみたいと思います。
ナショナル・ミニマムというのは分かりづらいかもしれませんが、19世紀の末にイギリスにおいて、ウェッブ夫妻がナショナル・ミニマム論を展開するのですが、ナショナル・ミニマムというのがなぜ出来たかと言いますと、個々人の労働者には自分の社会慣習的生活を守ろうとする抵抗が働き、それを「コンベンショナル・ミニマム」というのですが、個々人の労働者では弱いわけでして、いくら要求しても「そんなに良い賃金を払ってくれるなら、払ってくれる所にあなたが移ったらどうですか」と言われるのがやまです。そこで、労働者は団結をして労働組合をつくることになります。労働組合と経営者の間でつくられる「コモン・ルール」として労働協約が結ばれ、それによって労働条件を守ろうとするわけです。この労働組合による抵抗を「モラル・ミニマム」というわけです。しかし、それでも当時膨大に存在する未組織労働者である低賃金・不安定雇用労働者、例えば、苦汗産業で働く女性労働者や年少児童労働者、ドック(港湾)日雇労働者の低賃金が、組織労働者の賃金や労働条件を引き下げる働きをしたのです。そこで、これら低賃金・不安雇用労働者=ワーキングプアの最低賃金を保障しなければ、組織労働者の賃金も向上しないことに気づき、全国民的・包括的最低生活保障としても「ナショナル・ミニマム」を提唱することになるのです。
ナショナル・ミニマムの体系を考えた場合、憲法で保障されている「健康で文化的な最低限度の生活」とは何かということで、その中身が問われているのですが、意外にその中身について踏み込んで語られてはいないのです。そういう事を語らなければいけない時代に来ているということです。すでに触れたように、生活保護制度の改悪が進められ、老齢加算や母子加算の段階的廃止が断行され、政府は06年の「骨太の方針」で保護基準の本格的な見直しを掲げることになります。憲法25条で保障されている生存権が危うくなっているのです。
「健康で文化的な最低限度の生活」を考える場合、アマルティア・センの言う生活の「機能」の考え方が大変示唆的です。センによれば、基礎的「機能」として「適切な栄養を得ているか」「雨露をしのぐことができるか」「避けられる病気にかかっていないか・早死にしていないか」「健康状態にあるか」ということを、まず挙げているのです。これは健康の維持・生命の維持を意味しています。さらにその上に「読み書きができるか」「移動することができるか」「自尊心を保つことができるか」「人前に出て恥をかかないでいられるか」「社会生活に参加しているか」といった複雑で高度な「機能」を挙げています。ここは「文化的」側面と考えられるところであります。
これらは、人間の生にとって基底的で、誰にとっても共通した、したがって容易に人々が合意可能であり、それゆえに重要な「人間的最低生活」の欲求と考えられるわけであります。この人間的最低生活の欲求というのは、誰にでも共通した欲求であり、それ故公共的な欲求、あるいは決定的な欲求と言ってもいいものであります。
これらの生活の「機能」は、時代を超えて「絶対的」であります。しかし、時代と共にその中身が多様化し「相対化」してくると考えられるわけです。昔は水を買って飲むということはまず考えられなかったですね。今は買って飲むのが普通になっている。中身は何も変わっていないのです。あり方が時代と共に多様化していく、そういう考え方なんですね。あるいは、つい最近まで、家事や育児といった家庭内労働は、女性の仕事とされてきた。しかし、今日では女性の社会参加が進み、共働きや長時間・交代制勤務が一般的になると、家庭内労働の軽減の必要からそれらの多くが外部化・商品化していくことになります。私たちはこれを労働の全般的「社会化」に対応した消費生活の全般的「社会化」と言っているのです。また、産業の発展は、さまざまな耐久消費財を生みだし、それが社会慣習として受け入れられていく。これらは、ライフスタイルの変化であり、必ずしも生活水準の向上とは言い難いのです。例えば、アマルティア・センは次のように言っています。インドでは電話や電気洗濯機が無くても人前に出て恥をかくことはないが、先進国ではそれらが無いと人前に出て恥をかくことがある。それらをそろえるために、逆に食費や被服費を削ることもある。
2.人間存在の多様化への配慮
次に、その人間的な生活の「機能」を達成できる「手段・能力」が問題となってきているが、その達成する手段や能力がきわめて多様化されている。人間存在の多様性という問題が課題となって出てくるわけです。
その1つは、生活上の事故が発生した場合、病気や怪我をしたり、あるいは高齢化したり失業したりいろんな状況が考えられるが、もちろん、そういう場合、働くことが困難となり所得・財の多様性が生まれるのです。
もう1つは、個々人の身体的特徴の違いというのは、性別や年齢による違いだとか、障害のあるなしだとか、健康状態によって違いが出てくるわけです。仮に高齢であったり、障害があったり健康を害していれば、移動することが出来ない、社会生活に参加出来ないということが起こりうるわけですね。ですから、こういった個人の身体的特徴に配慮しなければいけない。また女性で言えば、どうしても出産の問題がかかってくるわけですね。そういった場合に社会生活に参加できるかといった問題が出てくるわけです。この個々人の身体的特徴の違いは、所得や財だけではない社会的配慮が必要になってくるわけです。
もう1つは、人々が置かれている社会的状況の違いによるものです。たとえばジェンダーの問題がある。女性が差別され仕事など社会的に参加出来ないという状況が起こりうるこということであります。あるいは、人種差別であるとか、カースト制などの階級差別といた基本的人権にかかわる問題もあるわけです。また、医療施設が整っているかというのも非常に大きな問題です。特に発展途上国などで、医療施設・医薬品があるかないかで、避けられる病気にかかってないかということです。わが国においても、先に見たように、正規保険証が取り上げられて医療機関にかかれないことも起こりうるわけですよ。日本でもそんなに特別な問題ではないということです。あるいは、暴力や犯罪が多発している地域にいるかいないかということも指摘するわけです。暴力や犯罪が多発しているということは怪我をしたり、いつ死ぬか分からないということにもなりかねない。言うなれば、「平和」であるということがいかに大切であるかということで、平和であることが、「人間的最低生活」を達成するための前提となる。ですから憲法の9条と25条は相互の関係にあるということにもなるわけです。
こうした人間存在の多様性に対して社会的配慮がないとすれば、「健康で文化的な最低限度の生活」を達成することはできないということになってくるのであります。
3.全国的な包括的社会層の体系―ナショナル・ミニマムの体系―を考える
まず第1の体系は、生活上の事故が発生した場合、所得の減少や喪失、そういった場合が想定されるわけですね。そうした場合副収入として、まず現状の制度というものを考えてみれば、社会保険というのが真っ先に思い浮かびます。医療保険、老齢年金、障害保険、遺族年金、病気やケガ、障害が残った場合、一家の大黒柱が死亡した場合、高齢化した場合、こうした生活上の事故が発生した場合には、「人間的最低生活」を達成するための手段・能力、つまり働いて所得を得ることが出来なくなる。そういった場合の所得保障が必要となってくるわけです。しかし、社会保険にも限界がありまして、社会保険の網の目から洩れてくる可能性があるということです。社会保険の限界として考えられるのは、保険料の支払いを前提にしているということですね。支払わなければ権利を失う可能性があるということです。したがって、保険給付の資格条件が存在する。保険料の支払期間が十分でない場合には、資格を失うということに成りかねない。あるいは、保険給付は保険料支払期間や保険料額に比例している場合がある。場合によっては、保険給付額が少なくなる可能性があるということになります。あるいは、失業保険のように保険給付期間が限られている場合があります。そうした場合には、それを超えて失業している場合はどうしたらいいかという問題が出てくるわけです。また、社会保険はすべての生活上の事故に対応できない場合があります。たとえば、死亡した場合には遺族年金が支払われますが、離婚だと遺族年金は支払われないということになります。そうした、あらゆる生活上の事故に対応できないという欠陥があるということです。
そうした中で、社会保険制度から洩れてきた人々に対しては、最後の受け皿として、生活保護制度を中心とした低所得者対策を含めた公的扶助制度が必要とされてきます。
ただし、こういった所得保障だけでは、先ほど言ったように人間的最低生活を達成することはできないのだろう。次に必要とされるのは、人間の個々人の身体的特徴の違いへの社会的配慮であります。したがって第2の体系は、社会福祉のサービスの体系ということになります。所得がある程度あるとしても、障害があったり、高齢であったり、健康が害している場合には、「適切な栄養を得ているか」「健康であるか」「移動することができるか」とか「社会生活に参加できるか」「自尊心を保つことができるか」といった重要な「人間的な最低生活」を達成できない場合が出てくるということであります。その場合には、ホームヘルプサービス、ディサービス、ショートステイサービス、移動サービス、配食サービスなどの福祉サービスが必要となってくるわけであります。ここには抜本的な福祉サービス以外にも、ボランティアなどのインフォーマルなサポートシステムなども合わさってなければ、おそらくは安心して生活できないということになってくると思うのです。
こうした所得保障の体系と福祉サービスの体系を合わせた社会保障の体系というのが一般的でありますが、そこに欠けているものに大変重要な側面があると思うのです。第3の体系として、「読み書きができるか」とか「雨露をしのぐことができるのか」というような生活の一般的条件として、人々の生活の基盤、土台が必要となるわけです。「生活基盤」、最近よくライフラインとか言われていますね。こうした、「生活基盤」の確保が大変重要になってくるわけです。住宅、教育、医療、交通・通信、水道、電気、ガスといったものがそれですが、それらは所得が高かろうが低かろうが、社会的に身分が高かろうが低かろうが、誰にでも必要であるという意味で一般的なのです。したがって、住宅や教育、医療などは、本来は誰にでも低料金・無料で利用できるのが望ましいのですが、低所得層が利用できないということが起こりうるわけであります。しかも、それらはワンセットで必要とされ、どれ1つかけても生活が成り立たないという性格のものです。しかし、その建設・運営には膨大な費用がかかるわけです。そうした性格から、国、自治体による建設・運営が必要になってくるということです。そういう考え方に基づいて、たとえばイギリスの戦後社会保障体系を考えたベヴァリッジレポートでは、住宅は公営住宅で教育は無料で、医療制度はナショナル・ヘルス・サービスとして無料ということです。日本と韓国とアメリカは大学の授業料が高くて、個々の世帯の私的な負担が50%をこえているということなのですが、ヨーロッパにおいては個人の負担が10%そこそこなんですよ。1万、2万が当たり前なんです。無料というところが、ヨーロッパでは12カ国あります。イギリスでは最近授業料が有料化しましたが、それでも所得によって授業料の減免制度があり、半分の学生は免除されているのです。というふうに、教育に対する考え方、住宅に対する考え方、健康保険制度に対する考え方が国によって違うということですね。
さらに、第4の体系として、上記の諸制度を維持するための財源の保障と所得の再分配が必要となってきます。現役労働者や自営業者の所得保障が必要となってくる。税金や保険料を払えないと制度そのものが成り立たないということです。そういう意味で、現役労働者の所得保障というのは必要であると考えられる。いろんな意味では自家労賃、最低賃金、雇用保障、リビングウェッジ・公契約条例などの聞きなれない言葉があるのですけれども、そういうふうな保障が必要であろうと考えられます。
また、所得再分配機能を強化する必要があるのではないか。法人税の税率見直しということで、2002年に大きな見直しというのがありました。そして所得税・住民税の最高税率の見直しということで、一時は最高税率が75%もあったのですが、今は引き下げられて37%になっていまして、住民税は一律10%ということです。先ほどから言っていますように、生活費非課税制度というものを確立していく必要があるのではないか。最低生活費には課税しないという考え、あるいは保険料の減免、消費税の見直しなどを考えなければいけないのではないかと思っているわけです。
さらに、人種差別、性差別などの人権保障、労働時間・休日など労働基準保障、暴力や戦争のない「平和」の保障ということが前提となるということであります。
Ⅰ.貧困を考えることの意味 Ⅱ 現代の貧困の特徴 Ⅲ 現代の貧困化の構造
Ⅳ 突き当たった「最低生活の岩盤」 Ⅴ ナショナル・ミニマムの体系
Ⅵ ナショナル・ミニマムの機軸としても「最低生計費」
講師: 佛教大学 社会学部 教授 金澤 誠一 氏
■日時:2007年7月9日(月) ■場所:大阪府社会福祉会館3階第3会議室
『現代の貧困と「最低生活の岩盤」』
Ⅴ ナショナル・ミニマムの体系
1.「健康で文化的な最低限度の生活」の意味内容を考える
次に、ナショナル・ミニマムの体系について考えてみたいと思います。
ナショナル・ミニマムというのは分かりづらいかもしれませんが、19世紀の末にイギリスにおいて、ウェッブ夫妻がナショナル・ミニマム論を展開するのですが、ナショナル・ミニマムというのがなぜ出来たかと言いますと、個々人の労働者には自分の社会慣習的生活を守ろうとする抵抗が働き、それを「コンベンショナル・ミニマム」というのですが、個々人の労働者では弱いわけでして、いくら要求しても「そんなに良い賃金を払ってくれるなら、払ってくれる所にあなたが移ったらどうですか」と言われるのがやまです。そこで、労働者は団結をして労働組合をつくることになります。労働組合と経営者の間でつくられる「コモン・ルール」として労働協約が結ばれ、それによって労働条件を守ろうとするわけです。この労働組合による抵抗を「モラル・ミニマム」というわけです。しかし、それでも当時膨大に存在する未組織労働者である低賃金・不安定雇用労働者、例えば、苦汗産業で働く女性労働者や年少児童労働者、ドック(港湾)日雇労働者の低賃金が、組織労働者の賃金や労働条件を引き下げる働きをしたのです。そこで、これら低賃金・不安雇用労働者=ワーキングプアの最低賃金を保障しなければ、組織労働者の賃金も向上しないことに気づき、全国民的・包括的最低生活保障としても「ナショナル・ミニマム」を提唱することになるのです。
ナショナル・ミニマムの体系を考えた場合、憲法で保障されている「健康で文化的な最低限度の生活」とは何かということで、その中身が問われているのですが、意外にその中身について踏み込んで語られてはいないのです。そういう事を語らなければいけない時代に来ているということです。すでに触れたように、生活保護制度の改悪が進められ、老齢加算や母子加算の段階的廃止が断行され、政府は06年の「骨太の方針」で保護基準の本格的な見直しを掲げることになります。憲法25条で保障されている生存権が危うくなっているのです。
「健康で文化的な最低限度の生活」を考える場合、アマルティア・センの言う生活の「機能」の考え方が大変示唆的です。センによれば、基礎的「機能」として「適切な栄養を得ているか」「雨露をしのぐことができるか」「避けられる病気にかかっていないか・早死にしていないか」「健康状態にあるか」ということを、まず挙げているのです。これは健康の維持・生命の維持を意味しています。さらにその上に「読み書きができるか」「移動することができるか」「自尊心を保つことができるか」「人前に出て恥をかかないでいられるか」「社会生活に参加しているか」といった複雑で高度な「機能」を挙げています。ここは「文化的」側面と考えられるところであります。
これらは、人間の生にとって基底的で、誰にとっても共通した、したがって容易に人々が合意可能であり、それゆえに重要な「人間的最低生活」の欲求と考えられるわけであります。この人間的最低生活の欲求というのは、誰にでも共通した欲求であり、それ故公共的な欲求、あるいは決定的な欲求と言ってもいいものであります。
これらの生活の「機能」は、時代を超えて「絶対的」であります。しかし、時代と共にその中身が多様化し「相対化」してくると考えられるわけです。昔は水を買って飲むということはまず考えられなかったですね。今は買って飲むのが普通になっている。中身は何も変わっていないのです。あり方が時代と共に多様化していく、そういう考え方なんですね。あるいは、つい最近まで、家事や育児といった家庭内労働は、女性の仕事とされてきた。しかし、今日では女性の社会参加が進み、共働きや長時間・交代制勤務が一般的になると、家庭内労働の軽減の必要からそれらの多くが外部化・商品化していくことになります。私たちはこれを労働の全般的「社会化」に対応した消費生活の全般的「社会化」と言っているのです。また、産業の発展は、さまざまな耐久消費財を生みだし、それが社会慣習として受け入れられていく。これらは、ライフスタイルの変化であり、必ずしも生活水準の向上とは言い難いのです。例えば、アマルティア・センは次のように言っています。インドでは電話や電気洗濯機が無くても人前に出て恥をかくことはないが、先進国ではそれらが無いと人前に出て恥をかくことがある。それらをそろえるために、逆に食費や被服費を削ることもある。
2.人間存在の多様化への配慮
次に、その人間的な生活の「機能」を達成できる「手段・能力」が問題となってきているが、その達成する手段や能力がきわめて多様化されている。人間存在の多様性という問題が課題となって出てくるわけです。
その1つは、生活上の事故が発生した場合、病気や怪我をしたり、あるいは高齢化したり失業したりいろんな状況が考えられるが、もちろん、そういう場合、働くことが困難となり所得・財の多様性が生まれるのです。
もう1つは、個々人の身体的特徴の違いというのは、性別や年齢による違いだとか、障害のあるなしだとか、健康状態によって違いが出てくるわけです。仮に高齢であったり、障害があったり健康を害していれば、移動することが出来ない、社会生活に参加出来ないということが起こりうるわけですね。ですから、こういった個人の身体的特徴に配慮しなければいけない。また女性で言えば、どうしても出産の問題がかかってくるわけですね。そういった場合に社会生活に参加できるかといった問題が出てくるわけです。この個々人の身体的特徴の違いは、所得や財だけではない社会的配慮が必要になってくるわけです。
もう1つは、人々が置かれている社会的状況の違いによるものです。たとえばジェンダーの問題がある。女性が差別され仕事など社会的に参加出来ないという状況が起こりうるこということであります。あるいは、人種差別であるとか、カースト制などの階級差別といた基本的人権にかかわる問題もあるわけです。また、医療施設が整っているかというのも非常に大きな問題です。特に発展途上国などで、医療施設・医薬品があるかないかで、避けられる病気にかかってないかということです。わが国においても、先に見たように、正規保険証が取り上げられて医療機関にかかれないことも起こりうるわけですよ。日本でもそんなに特別な問題ではないということです。あるいは、暴力や犯罪が多発している地域にいるかいないかということも指摘するわけです。暴力や犯罪が多発しているということは怪我をしたり、いつ死ぬか分からないということにもなりかねない。言うなれば、「平和」であるということがいかに大切であるかということで、平和であることが、「人間的最低生活」を達成するための前提となる。ですから憲法の9条と25条は相互の関係にあるということにもなるわけです。
こうした人間存在の多様性に対して社会的配慮がないとすれば、「健康で文化的な最低限度の生活」を達成することはできないということになってくるのであります。
3.全国的な包括的社会層の体系―ナショナル・ミニマムの体系―を考える
まず第1の体系は、生活上の事故が発生した場合、所得の減少や喪失、そういった場合が想定されるわけですね。そうした場合副収入として、まず現状の制度というものを考えてみれば、社会保険というのが真っ先に思い浮かびます。医療保険、老齢年金、障害保険、遺族年金、病気やケガ、障害が残った場合、一家の大黒柱が死亡した場合、高齢化した場合、こうした生活上の事故が発生した場合には、「人間的最低生活」を達成するための手段・能力、つまり働いて所得を得ることが出来なくなる。そういった場合の所得保障が必要となってくるわけです。しかし、社会保険にも限界がありまして、社会保険の網の目から洩れてくる可能性があるということです。社会保険の限界として考えられるのは、保険料の支払いを前提にしているということですね。支払わなければ権利を失う可能性があるということです。したがって、保険給付の資格条件が存在する。保険料の支払期間が十分でない場合には、資格を失うということに成りかねない。あるいは、保険給付は保険料支払期間や保険料額に比例している場合がある。場合によっては、保険給付額が少なくなる可能性があるということになります。あるいは、失業保険のように保険給付期間が限られている場合があります。そうした場合には、それを超えて失業している場合はどうしたらいいかという問題が出てくるわけです。また、社会保険はすべての生活上の事故に対応できない場合があります。たとえば、死亡した場合には遺族年金が支払われますが、離婚だと遺族年金は支払われないということになります。そうした、あらゆる生活上の事故に対応できないという欠陥があるということです。
そうした中で、社会保険制度から洩れてきた人々に対しては、最後の受け皿として、生活保護制度を中心とした低所得者対策を含めた公的扶助制度が必要とされてきます。
ただし、こういった所得保障だけでは、先ほど言ったように人間的最低生活を達成することはできないのだろう。次に必要とされるのは、人間の個々人の身体的特徴の違いへの社会的配慮であります。したがって第2の体系は、社会福祉のサービスの体系ということになります。所得がある程度あるとしても、障害があったり、高齢であったり、健康が害している場合には、「適切な栄養を得ているか」「健康であるか」「移動することができるか」とか「社会生活に参加できるか」「自尊心を保つことができるか」といった重要な「人間的な最低生活」を達成できない場合が出てくるということであります。その場合には、ホームヘルプサービス、ディサービス、ショートステイサービス、移動サービス、配食サービスなどの福祉サービスが必要となってくるわけであります。ここには抜本的な福祉サービス以外にも、ボランティアなどのインフォーマルなサポートシステムなども合わさってなければ、おそらくは安心して生活できないということになってくると思うのです。
こうした所得保障の体系と福祉サービスの体系を合わせた社会保障の体系というのが一般的でありますが、そこに欠けているものに大変重要な側面があると思うのです。第3の体系として、「読み書きができるか」とか「雨露をしのぐことができるのか」というような生活の一般的条件として、人々の生活の基盤、土台が必要となるわけです。「生活基盤」、最近よくライフラインとか言われていますね。こうした、「生活基盤」の確保が大変重要になってくるわけです。住宅、教育、医療、交通・通信、水道、電気、ガスといったものがそれですが、それらは所得が高かろうが低かろうが、社会的に身分が高かろうが低かろうが、誰にでも必要であるという意味で一般的なのです。したがって、住宅や教育、医療などは、本来は誰にでも低料金・無料で利用できるのが望ましいのですが、低所得層が利用できないということが起こりうるわけであります。しかも、それらはワンセットで必要とされ、どれ1つかけても生活が成り立たないという性格のものです。しかし、その建設・運営には膨大な費用がかかるわけです。そうした性格から、国、自治体による建設・運営が必要になってくるということです。そういう考え方に基づいて、たとえばイギリスの戦後社会保障体系を考えたベヴァリッジレポートでは、住宅は公営住宅で教育は無料で、医療制度はナショナル・ヘルス・サービスとして無料ということです。日本と韓国とアメリカは大学の授業料が高くて、個々の世帯の私的な負担が50%をこえているということなのですが、ヨーロッパにおいては個人の負担が10%そこそこなんですよ。1万、2万が当たり前なんです。無料というところが、ヨーロッパでは12カ国あります。イギリスでは最近授業料が有料化しましたが、それでも所得によって授業料の減免制度があり、半分の学生は免除されているのです。というふうに、教育に対する考え方、住宅に対する考え方、健康保険制度に対する考え方が国によって違うということですね。
さらに、第4の体系として、上記の諸制度を維持するための財源の保障と所得の再分配が必要となってきます。現役労働者や自営業者の所得保障が必要となってくる。税金や保険料を払えないと制度そのものが成り立たないということです。そういう意味で、現役労働者の所得保障というのは必要であると考えられる。いろんな意味では自家労賃、最低賃金、雇用保障、リビングウェッジ・公契約条例などの聞きなれない言葉があるのですけれども、そういうふうな保障が必要であろうと考えられます。
また、所得再分配機能を強化する必要があるのではないか。法人税の税率見直しということで、2002年に大きな見直しというのがありました。そして所得税・住民税の最高税率の見直しということで、一時は最高税率が75%もあったのですが、今は引き下げられて37%になっていまして、住民税は一律10%ということです。先ほどから言っていますように、生活費非課税制度というものを確立していく必要があるのではないか。最低生活費には課税しないという考え、あるいは保険料の減免、消費税の見直しなどを考えなければいけないのではないかと思っているわけです。
さらに、人種差別、性差別などの人権保障、労働時間・休日など労働基準保障、暴力や戦争のない「平和」の保障ということが前提となるということであります。