HOME > 活動のご紹介 > 国際交流 > 大阪大学人間科学研究科教育人間学研究分野 博士課程前期1年 京極 重智

大阪大学人間科学研究科教育人間学研究分野 博士課程前期1年 京極 重智

日 時 2010年5月1日(土) 15時40分から21時まで
行動名 国際平和会議
場 所 The Riverside Church, 490 Riverside Drive, New York, NY 10027-5788
参 加 大西弘毅、京極重智(Gグループからは左記の二名)
概 要 
1.分科会「グローバルヒバクシャ」(15時40分から17時30分)に関して
  この分科会では、日本のヒバクシャに加え、世界各地における核兵器の被害者がスピーチを行った。そこではとくに、「核兵器は人類と共存できない」というメッセージが強く打ち出されていた。講演者とその内容については下記のとおり。
 Junko Kayashige(小学生のとき広島で被爆。そのときの凄惨な様子を語る)
 Kim Yongkil(韓国原爆被害者協会の代表。五歳のときに被爆した。彼をはじめとし、世界各地にヒバクシャがいるが、その人々が注目されていない現状を訴える)
 Matashichi Oishi(第五福竜丸乗組員。ガンと気管支炎のために、嗅覚を失ってしまった。核実験から生じる「死の灰」がもたらすガンの増加について語る)
 Abbacca Anjain Madison(マーシャル諸島出身の女性。現地では、1954年から1968年の間に60回以上の核実験が行われ、住民に放射線の被害が及んだ)
 Claudia Peterson(アメリカネバダ州のウラン鉱採掘現場の周辺に住んでいる女性。汚染された食べ物のせいで、両親と夫、妹など、多くの親族を亡くした)
 Natalia Mironova(ロシアの核兵器製造工場周辺に住んでいた女性。プルトニウムの放射能汚染が水や大地に広がり、多くの被害者が出た)
2.総会(19時40分から21時まで)に関して
  まとめの総会では、秋葉広島市長や潘基文国連事務総長といった権威ある方々を中心に、核兵器廃絶にむけたスピーチが行われた。数々のスピーチの中で、国連事務総長が、NPT第6条(核兵器国の核軍縮に対する義務)を、今回の再検討会議で強く訴えると公言したことを、特記しておくべきだろう。
感 想 潘基文国連事務総長のスピーチが強く印象に残った。NPTの不平等性やCTBTの未発効、また、START4におけるMDに関する課題といった現状の中で、今回の再検討会議において、核廃絶にむけた明確な指針が定まることを祈るばかりである。
気づいたことなど
「グローバルヒバクシャ」にて取り上げられていたことは、日本ではあまり意識されていない。ここで学んだことを、日本に帰ってから広く伝えていかなければならない。

日 時 2010年5月2日(日) 10時から17時30分まで
行動名 国連パス発行手続き、および核兵器廃絶のためのNGO共同行動集会・デモ
場 所 国連パス発行事務所(10時から12時)、タイムズスクエアから国連まで(13時30分から17時30分)
参 加 前半はGグループのうち生協代表団、後半はGグループ全員
概 要 
1.国連パス発行に関して
  国連内部に入るためには、専用のパスが必要となるため、申請書類とパスポートを持参し、国連パス発行事務所に向かった。しかし、到着時間が少し遅かったため、結局国連パスを発行してもらうことはできなかった。
2.核兵器廃絶のためのNGO共同行動集会・デモに関して
  タイムズスクエアでの、各国のNGO代表による核兵器廃絶に向けたスピーチの後、国連本部に向けて核兵器廃絶デモパレードを行った。デモ参加者は一万人以上と見込まれ、五年前よりも大規模なパレードになったと思われる。各自、核兵器廃絶を周囲に訴えるための、工夫を凝らした衣装・横断幕などを用いていた。
感 想 とくに概要の2に関して。当日は、五月とは思えないほどの炎天下で、被爆者の方々に過剰な負担をかけてしまったのではないだろうか。また、デモパレードの前に集会が一時間半もあり、そのほとんどが英語によるスピーチであったことから、被爆者の方々が、この集会に積極的に参加できなかったのではないかと思われる。
ただ、そういった中でも、やはりこれだけ大規模のパレードは人々の注目を集めたようで、歩道に立ち止まって見物する人々やバスから手を振る人々が見受けられた。そういった多くの人々に核兵器廃絶をアピールできた点で、上記のような問題はあれ、大いに意義のある活動であったといえるだろう。
気づいたことなど
まず、概要の1に関して。国連パス発行所は思いのほか小規模で、数十人のパスを発行するのに数時間かかっていた。そのため、開始1時間前くらいに並びはじめなければ、予定通りパスを受け取ることは難しい。明日以降、この反省を生かすべきだろう。
次に、概要の2に関して。デモパレードという行動自体、外国に比べて日本では馴染みが薄く、外国の人々の方が意気揚々とパレードに参加していたように思う。こういった差は文化の違いから生じるものであろうが、例えば、日本における「祭り」のような感覚でデモパレードに参加すれば、この差は克服できるのではないだろうか。

日 時 2010年5月3日(月) 11時20分から17時30分まで
行動名 証言活動、および原爆展テープカット参加
場 所 Grace Church School(11時20分から13時)、国連本部(13時から17時30分)
参 加 Gグループ全員
概 要 
1.証言活動に関して
  証言活動は、私立グレースチャーチスクールの中学生に対して、ヒバクシャの廣中さんが行った。お話を聞いた生徒の中には、今年の6月に広島を訪れるものがいた。
2.原爆展テープカットに関して
  国連本部にて行われる原爆パネル展の開催を記念して、テープカットが行われた。
感 想 とくに概要の1に関して。グレースチャーチスクールの生徒たちは、みな食い入るように廣中さんのお話を聞いていた。この学校は、周りの学校に比べて成績優秀校だそうで、将来的にリーダーへとなっていくだろう生徒たちにこういった話を聞いてもらうのは有意義なことだと思う。一方で、こういった学校にしか受け容れてもらえないのかもしれないという不安もある。つまり、「優秀でない」子どもたちには、こういった話を聞かせる機会があるのだろうかと思ったのだ。とはいえ、彼らが真剣に聞いていた姿を見て、被爆者の3人は自分のことに関心を持ってもらえたと嬉しそうだった。
気づいたことなど
まず、概要の1に関して。準備等は滞りなく行われ、証言途中にこれといったトラブルもなかったので、良かったと思う。ただ、被爆者の方々が、英語で通訳されながらだと、時間がかなり制約されてしまうし、内容も相手に正確に伝わっているのかが不安だと仰っていた。この点、これから日本以外の国の人々に、どうやって被爆体験を伝えていくかの課題になるのではないだろうか。
概要の2に関して。原爆展テープカットは、実は私はほとんど参加できなかった。というのも、証言活動を終えた被爆者の方に休んでもらっていたところ、何名かとはぐれてしまい、彼らと合流する間にテープカットの内容がほとんど終わってしまった。幸いなことに、はぐれてしまった方は直接テープカット会場に向かっていたため、それほど問題は起こらなかったが、現地で被爆者の方と直接連絡ができないのはかなり不便であった。この点、日本生協連は、被爆者の活動の支援のために現地にいるのだから、被爆者の方々に携帯電話を用意するなどの配慮があってもよかったのではないだろうか。

日 時 2010年5月4日(火) 10時から17時まで
行動名 原爆展での証言活動、平和市長会議傍聴、NPT再検討会議傍聴
場 所 国連本部
参 加 原爆展での証言活動はGグループ全員、残りは個人行動
概 要 
1.原爆展での証言活動に関して
  国連本部内部で原爆の惨状を伝えるパネル展が行われており、そこに被爆者の証言を聞くブースを設けた。何名かの参加者が集まったら、通訳を介しながら、それらの人々に原爆の恐ろしさを伝えた。
2.平和市長会議に関して
  平和市長会議が、NPT再検討会議に合わせて国連の会議室で行われた。そこでは、平和市長の数名がスピーチを行い、自分の自治体で行っている平和活動や平和に対する姿勢を発表していた。
3.NPT再検討会議に関して
  NPT再検討会議の中の、マスコミに向けて行われる演説を傍聴した。私が傍聴したときは、ちょうど福山外務副大臣のスピーチが行われていた。
感 想 とくに概要の3に関して。福山外務副大臣のスピーチが聞けるということで期待していたのだが、非常にお粗末な英語で失望した。途中の英単語を読み違えたり、つまったり、中学生が音読しているようにしか聞こえなかった。たとえ、それがマスコミ向けの演説だといっても、あくまで世界的に発信されるものであるのだから、少しくらい練習するなり、もっと上手い人を派遣するなり、何らかの対応が出来たのではないだろうか。もっと根本的な点についていえば、このNPT会議に首相クラスが来た国はイランのみであり、果たしてこの世界は核兵器をなくす気があるのか、悲しくなる。再度日本に目を向けると、一方で、核兵器の被害を訴える被爆者がいながら、国際会議の場においてなんとも情けないスピーチをしているのも同じ日本に住む人間であるのは、なんという皮肉だろうか。
気づいたことなど
まず概要の1に関して。実際、この原爆展には私とリーダーの蒲生さんは参加できていない。なぜなら、国連パスが結局この日まで取られなかったためである。この点は、今後こういった機会があるときには気をつけたほうがいい。次に概要の2に関して。上に書いた国連パスは、概要の2のような会議を傍聴するために取るのだが、その会議を聞かずに買い物に行ってしまったメンバーがいたのは、残念だった。

日 時 2010年5月5日(火) 10時55分から20時まで
行動名 証言活動、代表団夕食会
場 所 ニューヨーク育英学園(10時55分から17時)、代表団夕食会(18時から20時)
参 加 Gグループ全員
概 要 
1.証言活動に関して
  ニューヨーク育英学園という、いわゆる日本人学校にて被爆体験の証言活動を行った。グレースチャーチスクールとは違い、ここでは、Gグループの被爆者の方全員が証言を行った。上松さんは小学5、6年生に対して、佐藤さんは小学3、4年生に対して、廣中さんは小学校1、2年生に対してである。
2.代表団夕食会に関して
  この5日間一緒に行動をともにしたメンバーと夕食会をした。
感 想 まず概要の1に関して。訪れたのが小学校だったということで、被爆体験を聞いて出てくる質問も小学生らしいものばかりだった(例えば、なぜ飛行機の中で原爆を爆発させずに運べたのかなど)。被爆者の方々はそういった質問に、戸惑っていたようだったが、積極的に質問してくる生徒たちを見て、自分の話に関心を持ってもらえてよかったと語っていた。次に概要の2に関して。出会った当初は、メンバーのほとんどが知らない方ばかりだったので、少し距離感を感じたが、5日間行動をともにして、お互いの距離が縮まったように感じた。言われてみれば当たり前のことなのだが、被爆者の方を被爆者という括りで見るのではなく、一人の人間としてみることができるようになったのは、今回の体験で得た大きな気づきの一つである。
気づいたことなど
とくに概要の1に関して。上にも書いたように、証言活動のあと、「小学生らしい」質問が帰ってきて、正直、彼らに被爆体験を聞かせる必要があるのかよく分からなかった。今回は、小学校や中学校だけでなく、高校や大学にも証言活動に向かわせているようだが、とくに入学したばかりの小学1年生や2年生に対しては、この話は「難しい」のではないかと思った。早いうちからそういった話をするのが大切だという主張も分からないわけでもないが、日本を例に挙げてみても、早いうちはこうやって徹底して平和教育をするにも関わらず、大人になればなるほど、みなそれに浸らなくなってしまう構造があるように思える。話を聞くのも大切だが、そこから議論していかないことには、ただの「悲しいお話」で終わってしまうのではないか。これが杞憂であればいいが。

心に深く響いたもの
この代表団派遣で様々な経験をしたが、その中でもとくに、次の二つのことが私の心に深く響いた。一つは「ヒバクシャは世界中にいる」ということ、そしてもう一つは、「『ヒバクシャ』も一人の人間だ」ということである。
普段、何気なく暮らしていると、ヒバクシャは日本の中にしか見えてこない。だが、実際は、世界中に数多くのヒバクシャがいる。「(日本の)『ヒバクシャ』についてもっと知ってほしい」とは、平和活動でよく耳にするフレーズだが、本当はそれと同じくらい、私たちは世界中にいるヒバクシャを知らなければならない。とはいえ、「そんな異国のことなんか知らない」という人がいるかもしれない。だが、いわゆるグローバル化してしまったこの時代において、自分の身の回りだけを見ていれば果たして十分だろうか。もちろん、そうならざるを得ない社会の構造も責めるべきかもしれないが、まずもって、そういった「他に対する想像力の欠如、他への無関心」が、結局は「戦争」を生み出すと思えてならない。
他方、「『ヒバクシャ』も人間である」、そんな当たり前のことを、私はこれまで意識していなかった。「ヒバクシャ」という色眼鏡を通して、彼/彼女たちから反戦と核を反射的に見てきたのは、私だけではないかもしれない。けれども、彼/彼女たちは「ヒバクシャ」である前に一人の人間であり、それぞれの人生、言い換えればそれぞれの物語がある。それは数字が語りえないものであり、何よりも真に迫るものでもある。それは決して被爆体験だけに限らない。彼/彼女たちがどのように生きてきたのか、被爆体験はその一部に過ぎないのだ。被爆体験を限定的に取り出すことは、その前後の物語を覆うことであり、彼/彼女たちをある定型にはめてしまう。そして「ヒバクシャ」が作られていくのだ。

これから何をしていくべきか
「『ヒバクシャ』→原爆の被害者→可哀想→戦争はダメ、核兵器はダメ」というルーティーンが、以前の私にはあった。けれども、このルーティーンは、ほとんど何も生み出さないのではないだろうか。これは、例えば、なぜ戦争が起こったのか、なぜ核兵器がこんなにも蔓延してしまったのかという部分を、つまり「それ以前」と「それ以降」を熟慮しない。「ヒバクシャ」という絶対的被害者を起点として、ただ念仏のように「平和」を唱えるだけである。けれど、いつかその起点がなくなってしまったとき、その起点の痕跡も薄れてしまったとき、それでも人々は「平和」を望むのだろうか。
ここで言いたいのは、そのルーティーンを止めるべきだということではない。そうではなくて、それに加えて「それ以前」と「それ以降」を熟慮すべきではないかということだ。「ヒバクシャ」という足場だけでは心許なければ、それ以外の足場を作ればいい。私は複数の足場に立って彼らの意志を継ぎ、それを未来へと受け渡していこうと思う。
日 時 2010年5月1日(土) 15時40分から21時まで
行動名 国際平和会議
場 所 The Riverside Church, 490 Riverside Drive, New York, NY 10027-5788
参 加 大西弘毅、京極重智(Gグループからは左記の二名)
概 要 
1.分科会「グローバルヒバクシャ」(15時40分から17時30分)に関して
  この分科会では、日本のヒバクシャに加え、世界各地における核兵器の被害者がスピーチを行った。そこではとくに、「核兵器は人類と共存できない」というメッセージが強く打ち出されていた。講演者とその内容については下記のとおり。
 Junko Kayashige(小学生のとき広島で被爆。そのときの凄惨な様子を語る)
 Kim Yongkil(韓国原爆被害者協会の代表。五歳のときに被爆した。彼をはじめとし、世界各地にヒバクシャがいるが、その人々が注目されていない現状を訴える)
 Matashichi Oishi(第五福竜丸乗組員。ガンと気管支炎のために、嗅覚を失ってしまった。核実験から生じる「死の灰」がもたらすガンの増加について語る)
 Abbacca Anjain Madison(マーシャル諸島出身の女性。現地では、1954年から1968年の間に60回以上の核実験が行われ、住民に放射線の被害が及んだ)
 Claudia Peterson(アメリカネバダ州のウラン鉱採掘現場の周辺に住んでいる女性。汚染された食べ物のせいで、両親と夫、妹など、多くの親族を亡くした)
 Natalia Mironova(ロシアの核兵器製造工場周辺に住んでいた女性。プルトニウムの放射能汚染が水や大地に広がり、多くの被害者が出た)
2.総会(19時40分から21時まで)に関して
  まとめの総会では、秋葉広島市長や潘基文国連事務総長といった権威ある方々を中心に、核兵器廃絶にむけたスピーチが行われた。数々のスピーチの中で、国連事務総長が、NPT第6条(核兵器国の核軍縮に対する義務)を、今回の再検討会議で強く訴えると公言したことを、特記しておくべきだろう。
感 想 潘基文国連事務総長のスピーチが強く印象に残った。NPTの不平等性やCTBTの未発効、また、START4におけるMDに関する課題といった現状の中で、今回の再検討会議において、核廃絶にむけた明確な指針が定まることを祈るばかりである。
気づいたことなど
「グローバルヒバクシャ」にて取り上げられていたことは、日本ではあまり意識されていない。ここで学んだことを、日本に帰ってから広く伝えていかなければならない。

日 時 2010年5月2日(日) 10時から17時30分まで
行動名 国連パス発行手続き、および核兵器廃絶のためのNGO共同行動集会・デモ
場 所 国連パス発行事務所(10時から12時)、タイムズスクエアから国連まで(13時30分から17時30分)
参 加 前半はGグループのうち生協代表団、後半はGグループ全員
概 要 
1.国連パス発行に関して
  国連内部に入るためには、専用のパスが必要となるため、申請書類とパスポートを持参し、国連パス発行事務所に向かった。しかし、到着時間が少し遅かったため、結局国連パスを発行してもらうことはできなかった。
2.核兵器廃絶のためのNGO共同行動集会・デモに関して
  タイムズスクエアでの、各国のNGO代表による核兵器廃絶に向けたスピーチの後、国連本部に向けて核兵器廃絶デモパレードを行った。デモ参加者は一万人以上と見込まれ、五年前よりも大規模なパレードになったと思われる。各自、核兵器廃絶を周囲に訴えるための、工夫を凝らした衣装・横断幕などを用いていた。
感 想 とくに概要の2に関して。当日は、五月とは思えないほどの炎天下で、被爆者の方々に過剰な負担をかけてしまったのではないだろうか。また、デモパレードの前に集会が一時間半もあり、そのほとんどが英語によるスピーチであったことから、被爆者の方々が、この集会に積極的に参加できなかったのではないかと思われる。
ただ、そういった中でも、やはりこれだけ大規模のパレードは人々の注目を集めたようで、歩道に立ち止まって見物する人々やバスから手を振る人々が見受けられた。そういった多くの人々に核兵器廃絶をアピールできた点で、上記のような問題はあれ、大いに意義のある活動であったといえるだろう。
気づいたことなど
まず、概要の1に関して。国連パス発行所は思いのほか小規模で、数十人のパスを発行するのに数時間かかっていた。そのため、開始1時間前くらいに並びはじめなければ、予定通りパスを受け取ることは難しい。明日以降、この反省を生かすべきだろう。
次に、概要の2に関して。デモパレードという行動自体、外国に比べて日本では馴染みが薄く、外国の人々の方が意気揚々とパレードに参加していたように思う。こういった差は文化の違いから生じるものであろうが、例えば、日本における「祭り」のような感覚でデモパレードに参加すれば、この差は克服できるのではないだろうか。

日 時 2010年5月3日(月) 11時20分から17時30分まで
行動名 証言活動、および原爆展テープカット参加
場 所 Grace Church School(11時20分から13時)、国連本部(13時から17時30分)
参 加 Gグループ全員
概 要 
1.証言活動に関して
  証言活動は、私立グレースチャーチスクールの中学生に対して、ヒバクシャの廣中さんが行った。お話を聞いた生徒の中には、今年の6月に広島を訪れるものがいた。
2.原爆展テープカットに関して
  国連本部にて行われる原爆パネル展の開催を記念して、テープカットが行われた。
感 想 とくに概要の1に関して。グレースチャーチスクールの生徒たちは、みな食い入るように廣中さんのお話を聞いていた。この学校は、周りの学校に比べて成績優秀校だそうで、将来的にリーダーへとなっていくだろう生徒たちにこういった話を聞いてもらうのは有意義なことだと思う。一方で、こういった学校にしか受け容れてもらえないのかもしれないという不安もある。つまり、「優秀でない」子どもたちには、こういった話を聞かせる機会があるのだろうかと思ったのだ。とはいえ、彼らが真剣に聞いていた姿を見て、被爆者の3人は自分のことに関心を持ってもらえたと嬉しそうだった。
気づいたことなど
まず、概要の1に関して。準備等は滞りなく行われ、証言途中にこれといったトラブルもなかったので、良かったと思う。ただ、被爆者の方々が、英語で通訳されながらだと、時間がかなり制約されてしまうし、内容も相手に正確に伝わっているのかが不安だと仰っていた。この点、これから日本以外の国の人々に、どうやって被爆体験を伝えていくかの課題になるのではないだろうか。
概要の2に関して。原爆展テープカットは、実は私はほとんど参加できなかった。というのも、証言活動を終えた被爆者の方に休んでもらっていたところ、何名かとはぐれてしまい、彼らと合流する間にテープカットの内容がほとんど終わってしまった。幸いなことに、はぐれてしまった方は直接テープカット会場に向かっていたため、それほど問題は起こらなかったが、現地で被爆者の方と直接連絡ができないのはかなり不便であった。この点、日本生協連は、被爆者の活動の支援のために現地にいるのだから、被爆者の方々に携帯電話を用意するなどの配慮があってもよかったのではないだろうか。

日 時 2010年5月4日(火) 10時から17時まで
行動名 原爆展での証言活動、平和市長会議傍聴、NPT再検討会議傍聴
場 所 国連本部
参 加 原爆展での証言活動はGグループ全員、残りは個人行動
概 要 
1.原爆展での証言活動に関して
  国連本部内部で原爆の惨状を伝えるパネル展が行われており、そこに被爆者の証言を聞くブースを設けた。何名かの参加者が集まったら、通訳を介しながら、それらの人々に原爆の恐ろしさを伝えた。
2.平和市長会議に関して
  平和市長会議が、NPT再検討会議に合わせて国連の会議室で行われた。そこでは、平和市長の数名がスピーチを行い、自分の自治体で行っている平和活動や平和に対する姿勢を発表していた。
3.NPT再検討会議に関して
  NPT再検討会議の中の、マスコミに向けて行われる演説を傍聴した。私が傍聴したときは、ちょうど福山外務副大臣のスピーチが行われていた。
感 想 とくに概要の3に関して。福山外務副大臣のスピーチが聞けるということで期待していたのだが、非常にお粗末な英語で失望した。途中の英単語を読み違えたり、つまったり、中学生が音読しているようにしか聞こえなかった。たとえ、それがマスコミ向けの演説だといっても、あくまで世界的に発信されるものであるのだから、少しくらい練習するなり、もっと上手い人を派遣するなり、何らかの対応が出来たのではないだろうか。もっと根本的な点についていえば、このNPT会議に首相クラスが来た国はイランのみであり、果たしてこの世界は核兵器をなくす気があるのか、悲しくなる。再度日本に目を向けると、一方で、核兵器の被害を訴える被爆者がいながら、国際会議の場においてなんとも情けないスピーチをしているのも同じ日本に住む人間であるのは、なんという皮肉だろうか。
気づいたことなど
まず概要の1に関して。実際、この原爆展には私とリーダーの蒲生さんは参加できていない。なぜなら、国連パスが結局この日まで取られなかったためである。この点は、今後こういった機会があるときには気をつけたほうがいい。次に概要の2に関して。上に書いた国連パスは、概要の2のような会議を傍聴するために取るのだが、その会議を聞かずに買い物に行ってしまったメンバーがいたのは、残念だった。

日 時 2010年5月5日(火) 10時55分から20時まで
行動名 証言活動、代表団夕食会
場 所 ニューヨーク育英学園(10時55分から17時)、代表団夕食会(18時から20時)
参 加 Gグループ全員
概 要 
1.証言活動に関して
  ニューヨーク育英学園という、いわゆる日本人学校にて被爆体験の証言活動を行った。グレースチャーチスクールとは違い、ここでは、Gグループの被爆者の方全員が証言を行った。上松さんは小学5、6年生に対して、佐藤さんは小学3、4年生に対して、廣中さんは小学校1、2年生に対してである。
2.代表団夕食会に関して
  この5日間一緒に行動をともにしたメンバーと夕食会をした。
感 想 まず概要の1に関して。訪れたのが小学校だったということで、被爆体験を聞いて出てくる質問も小学生らしいものばかりだった(例えば、なぜ飛行機の中で原爆を爆発させずに運べたのかなど)。被爆者の方々はそういった質問に、戸惑っていたようだったが、積極的に質問してくる生徒たちを見て、自分の話に関心を持ってもらえてよかったと語っていた。次に概要の2に関して。出会った当初は、メンバーのほとんどが知らない方ばかりだったので、少し距離感を感じたが、5日間行動をともにして、お互いの距離が縮まったように感じた。言われてみれば当たり前のことなのだが、被爆者の方を被爆者という括りで見るのではなく、一人の人間としてみることができるようになったのは、今回の体験で得た大きな気づきの一つである。
気づいたことなど
とくに概要の1に関して。上にも書いたように、証言活動のあと、「小学生らしい」質問が帰ってきて、正直、彼らに被爆体験を聞かせる必要があるのかよく分からなかった。今回は、小学校や中学校だけでなく、高校や大学にも証言活動に向かわせているようだが、とくに入学したばかりの小学1年生や2年生に対しては、この話は「難しい」のではないかと思った。早いうちからそういった話をするのが大切だという主張も分からないわけでもないが、日本を例に挙げてみても、早いうちはこうやって徹底して平和教育をするにも関わらず、大人になればなるほど、みなそれに浸らなくなってしまう構造があるように思える。話を聞くのも大切だが、そこから議論していかないことには、ただの「悲しいお話」で終わってしまうのではないか。これが杞憂であればいいが。

心に深く響いたもの
この代表団派遣で様々な経験をしたが、その中でもとくに、次の二つのことが私の心に深く響いた。一つは「ヒバクシャは世界中にいる」ということ、そしてもう一つは、「『ヒバクシャ』も一人の人間だ」ということである。
普段、何気なく暮らしていると、ヒバクシャは日本の中にしか見えてこない。だが、実際は、世界中に数多くのヒバクシャがいる。「(日本の)『ヒバクシャ』についてもっと知ってほしい」とは、平和活動でよく耳にするフレーズだが、本当はそれと同じくらい、私たちは世界中にいるヒバクシャを知らなければならない。とはいえ、「そんな異国のことなんか知らない」という人がいるかもしれない。だが、いわゆるグローバル化してしまったこの時代において、自分の身の回りだけを見ていれば果たして十分だろうか。もちろん、そうならざるを得ない社会の構造も責めるべきかもしれないが、まずもって、そういった「他に対する想像力の欠如、他への無関心」が、結局は「戦争」を生み出すと思えてならない。
他方、「『ヒバクシャ』も人間である」、そんな当たり前のことを、私はこれまで意識していなかった。「ヒバクシャ」という色眼鏡を通して、彼/彼女たちから反戦と核を反射的に見てきたのは、私だけではないかもしれない。けれども、彼/彼女たちは「ヒバクシャ」である前に一人の人間であり、それぞれの人生、言い換えればそれぞれの物語がある。それは数字が語りえないものであり、何よりも真に迫るものでもある。それは決して被爆体験だけに限らない。彼/彼女たちがどのように生きてきたのか、被爆体験はその一部に過ぎないのだ。被爆体験を限定的に取り出すことは、その前後の物語を覆うことであり、彼/彼女たちをある定型にはめてしまう。そして「ヒバクシャ」が作られていくのだ。

これから何をしていくべきか
「『ヒバクシャ』→原爆の被害者→可哀想→戦争はダメ、核兵器はダメ」というルーティーンが、以前の私にはあった。けれども、このルーティーンは、ほとんど何も生み出さないのではないだろうか。これは、例えば、なぜ戦争が起こったのか、なぜ核兵器がこんなにも蔓延してしまったのかという部分を、つまり「それ以前」と「それ以降」を熟慮しない。「ヒバクシャ」という絶対的被害者を起点として、ただ念仏のように「平和」を唱えるだけである。けれど、いつかその起点がなくなってしまったとき、その起点の痕跡も薄れてしまったとき、それでも人々は「平和」を望むのだろうか。
ここで言いたいのは、そのルーティーンを止めるべきだということではない。そうではなくて、それに加えて「それ以前」と「それ以降」を熟慮すべきではないかということだ。「ヒバクシャ」という足場だけでは心許なければ、それ以外の足場を作ればいい。私は複数の足場に立って彼らの意志を継ぎ、それを未来へと受け渡していこうと思う。