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大学生協大阪・和歌山地域センター 大西 弘毅

大阪府生活協同組合連合会の代表として、NPT(核拡散防止条約)再検討会議に参加させていただきました。現地で実際に活動した5月1日~5日にかけての行動記録を下記に掲載いたしております。

5月1日
○結団式・昼食会(11:00~13:00 @宿泊ホテル)

今回の日本生協派遣団の主な目的が、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の方のサポートであった。その合同の結団式兼昼食会が、宿泊ホテルのレストランで行われた。
被団協の坪井団長は「今年ほど核廃絶成功への機運が高まっている年はない」と期待をする一方で、「日本からは首相も外務大臣も来ない」と日本の対応に失望しているという内容の挨拶をされた。
滞在中は生協派遣団約7名、被団協約3名の10名グループで派遣期間中行動する。この昼食会はその顔合わせの会ともなった。私のグループはG班で、生協派遣団はよどがわ市民生協3名、パルコープ2名、大阪府生協連2名で構成され、被団協は広島で被爆された廣中正樹さん、佐藤敏彦さん、上松利枝さんの3名。自己紹介や今回の派遣に対する決意表明など、グループ内で交流し、和やかな場となった。
○NGO国際平和会議(15:00~20:30 @リバーサイド教会)
リバーサイド教会は、キング牧師がベトナム戦争の反対演説を行うなど由緒ある教会。多数のNGOの共催で、4月30日から5月1日にかけて国際平和会議『核のない平和で公正で持続可能な世界のために』が行われた。私たちはこの日の午後からの参加。分科会セッション"グローバルヒバクシャ"と全体会に参加した。
分科会"グローバルヒバクシャ"では、広島・長崎の"被爆者"だけでなく、核兵器に関連して被害を受けられた世界中の"ヒバクシャ"の声を聞き、核兵器の与える影響の大きさ・悲惨さを考えようとする内容だった。核実験での被害・ウラン鉱山での被害など、"ヒバクシャ"がいるのは全世界に35カ国。その中から、長崎での被爆者・第五福竜丸での被爆者・マーシャル諸島で被爆した方・そのほかロシアやアメリカのネバダで被害に遭われた方などがパネラーとして参加し、その想いを語られた。個々の詳しい内容には触れないが、この分科会のまとめとしては、『国際的なヒバクシャのつながりの立ち上げが必要』『ヒバクシャの高齢化が進む中で、証言をフィルム化することが必要』となった。
この分科会の参加者の半数以上が日本人だったことから、"ヒバクシャ"というのは核廃絶論の中で特別に重要な扱いをされていないことを感じた。同時に、私たち日本人も広島・長崎に執着しすぎていて、他国のヒバクシャのことを知ろうとせず、他国における核兵器の意味合いを考えず、被害国としての視点しか持っていないのではないかと思った。
全体会では藩基文国連事務総長や広島市長の演説を聴くことができた。事務総長は核兵器のない世界の実現に向けて自ら動くことを厭わない方なのだなという印象を受けた。核廃絶に向けた機運が高まっているとはいえ、国連のトップがあれだけはっきりと発言することは滅多にないことなのではないだろうか。核保有国への削減交渉を促したり、8月6日に広島に来ることを明言したり。このときの発言にどれだけの人が勇気づけられたのだろうか。
5月2日
○国連パス申請(9:00~11:00)

国連の入場パスを申請するために、国連本部へ。申請会場にはさまざまな国の人が長蛇の列。申請一人ひとりに時間がかかるため、2時間ならんだのちにこの日の申請はあきらめてホテルに戻った。
並んでいる間に周りの外国人と交流できたのは貴重な機会となった。同じグループ内には日本から持ってきた折り鶴などを渡したり、逆に缶バッジをもらったりという人もいた。
○デモパレード参加(13:00~17:00)
午後からは被団協の人たちと合流して、デモパレードのスタート地点であるタイムズスクエアに。気温30度を超える中、1万人以上の人々が集結。半数は日本人なのではないかと思うほど、日本人参加者が多かった。会場周辺は、前日に爆弾事件があったこともあってか、警官が多かったことが印象的。3時30分まではタイムズスクエアでの平和集会。さまざまな国の人が演説を行った。その中には、秋葉広島市長、田上長崎市長や長崎の被爆者である木村緋沙子さんなど日本人の姿も。3時30分からは、国連本部前までの約2kmを歩いた。踊りながら歩く人、楽器を演奏しながら歩く人、「No Nukes!」「No more ヒバクシャ」と叫びながら全体を扇動する人などさまざま。日本からの大勢の参加者も、それぞれの横断幕を手に行進していた。
このパレードに参加するなかで考えたことは、「デモ」の意味。そして、大勢の日本人がニューヨークに来ている意味。
市民レベルでの草の根活動の大切さは理解しているつもりではある。市民・NGO・自治体・政府・国連で、それぞれ担うべき役割が違うこともわかっているつもりである。しかし、(特に国際関係においては)世論と政治とは別の次元なのだということを直接感じた。
15,000人とも20,000人とも言われたこのデモパレード。暑い中4時間も立ち、叫び、歩いた意味とは何か。なぜ(私も含めた)日本人は「ノーモアヒロシマ・ノーモアナガサキ」と先頭に立って叫べないのか。なぜ白人に先導されているのか。なぜ雑談をしながら笑顔で行進しているのか。なんのためにこれだけの日本人がはるばるニューヨークまで来ているのか。日本から見ている人はどう思いながら見ているのか。同じ想いを持っているのか「遠い国の出来事」と捉えているのか。なぜこれだけたくさんの人が平和を想い・願っているのにそれを実現できないのか。
そんなことをずっと考えていた。
○PIKADONプロジェクト(20:30~21:00)
夕食後、昨日知りあったNGOの方が企画している小イベントに参加。街中で広島からのメッセージムービー(10分程度)を流し、ニューヨークの街の人に核兵器について考えてもらおうという企画。国連本部・核保有国大使館・エンパイアーステートビルなどマンハッタン各地を回っていく。私が参加させてもらったのは、国連前での上映。ここは公園だったために、映像を映せる壁がなく、みんなで白い壁を作った。
道行く人の中には立ち止まって興味を示したり、最後までムービーを見ていく人もいた。NGO関係の人は10人ほど、周りの観衆をいれても40人程度の小さな集まりであったが、その場はみんなで楽しみながら平和を祈る空気ができていた。これがNGOレベルでできる、草の根の平和活動なのだろうかと考えながらも、その一体感や雰囲気がとても好きだった。
5月3日
○証言活動(10:30~13:30 @グレースチャーチスクール)

生協派遣団・被団協のメイン活動となっている証言活動。私たちの班では3日目にして初めての証言活動となった。グレースチャーチスクールは、私立の幼稚園~中学校までの一貫教育校。1学年40人程度のそれほど大きくはない学校だが、教育レベルの高い名門校だというお話だった。今回、証言を聞いてくれたのは80人の中学生。
証言は、被団協を代表して廣中さんがされた。時間の都合上、かいつまんでの証言となったが、それでも中学生は真剣に、涙ながらに聞いてくれていた。原爆の恐ろしさ、原爆投下という行為の結果を知るには十分だったようだ。「今の広島は放射能などは大丈夫なのか」「お体に今もなお後遺症はあるのですか」など、質問も積極的に出た。
この中学校では、毎年6月頃に中学生10数人が広島を訪れている。今年訪れる予定の中学生と被爆者の方の交流もわずかな時間ながらあり、広島での再会を約束していた。
○国連パス申請・原爆展オープンセレモニー(15:00~17:00 @国連本部)
NPT再検討会議の開始に合わせて国連ロビーで始まった原爆展。2005年の前回に続いて日本被団協主催での開催となった。原爆展は50枚のパネルで広島・長崎の原爆被害や旧ソ連や南太平洋の"ヒバクシャ"についても展示している。この日は人も多くて時間もなかったため、国連パスの取得だけで終わった。
セレモニーでは赤阪国連事務次長・志位日本共産党委員長・秋葉広島市長・田上長崎市長・坪井被団協代表などが挨拶・テープカットを行った。赤阪国連事務次長の挨拶は、「藩国連事務総長が核廃絶を最優先事項と指摘している中で、国連において原爆被害の実情を伝えることはタイムリーで重要なこと」という趣旨であった。
5月4日
○証言活動(10:00~12:00 @国連本部)

2度目の証言活動は、国連内の原爆展で行った。2時間のうちに、上松さん、佐藤さん、廣中さんが1回ずつ証言をされたほか、原爆展に訪れた人と(通訳を通して)個々にお話をされていた。
講演会の形式をとると、通訳を介して行う煩わしさからか、聴衆は日本人ばかりになってしまうのが実際であった。しかし、常に一定層の日本人の聴衆がいたのは、ほかの国の方と比べて日本人の来場者が多かったからだろう。日本人とはいえ、広島・長崎の惨状を学ぶ機会や被爆者の方の証言を聞く機会は確かに少なく、今回このような形で被爆者の方と行動をご一緒させていただいていることが本当に貴重な機会であるのだということを改めて実感した。
一方で、個々にお話をするとなると、通訳を介して熱心に聞き入る外国の方も多かった。スウェーデン人の家族・オランダの家族・アジア系の国連職員など、20分ほど聞き入る来場者も何組もあり、被爆者の方の想いが伝わっているのだろうと感じた。
証言をする場所の少し外れたところにあった「折り鶴コーナー」の方が外国の方の人気があったのも象徴的だったように思う。また、このパネル展で最も印象的であったのは、30代のお父さんが小学校高学年ぐらいの女の子と一緒に1枚1枚パネルを見て回り、説明している光景だった。大切なことをあのように伝えていける親になりたいと感じながら眺めていた。
○国連見学(12:00~14:00 @国連本部)
この日の午後は予定が空いていたこともあり、国連内の見学を行うことができた。国連会場内で行っていた『平和市長会議』の傍聴と『国連総会会場』での見学をすることができた。
平和市長会議は午前中に藩基文国連事務総長が演説を行ったとのことで、活気にあふれていた様子。私が傍聴したのは終わりがけだったのだが、フランス・オバーニュ市長、イタリア・マッツァリーノ市長、長崎市長らの平和な世界に向けた意見や決意を聞くことができた。中でも印象的だったのはベルギーのモートセル市長の『この会議の場には、欠かしてはならない重要な2人がいない。それは、戦争を生き抜いてきた人と未来を担う若い人だ。』という発言と、イギリス・ダンディー市議会議員の『核兵器の維持にお金を費やす一方で福祉が疎かになっている。』という発言。どちらの発言も的を得ていると同時に、今まで私が持っていなかった視点で、とても心に残っている。
総会会場は、あいにく通訳機が壊れている席に座ったので(さらに登壇者が英語で話す人が少なかったため)、ほとんど聞くことができなかった。総会会場はアピールをするいわば記者会見場のようなもので、実質協議は別会場で行うということは知っていたが、思っていた以上に会場は閑散としていた。前日のイランやアメリカの演説のときにはもっと人がいたのであろうから、人気度なわけではないが、国際会議の舞台においても国によって注目される国とされない国の差がはっきりと表れるのだということを感じた。
○シンポジウム「生存の叡智」参加(18:00~20:30 @ペース大学)
ニューヨーク市立大学やペース大学などが共催する平和に関するシンポジウム。シンポジウム自体はこの日の朝から行っていたが、私たちは夕方の懇親会からの参加。シンポジウム自体が少し延びた関係で、秋葉広島市長と、田中利幸広島市立大学教授の演説を聞くことができた。秋葉市長は午前中にあった平和市長会議のアピールを行い、ジョンレノンの『一人で夢見てもただの夢だが、皆で夢見れば現実になる』という言葉を紹介し、核兵器廃絶に向けて頑張ろうというアピール。田中教授は、広島の平和記念資料館に"ヒバクシャ"はおろか長崎の写真すらないことを挙げて、広島の話を訴えるのではなく、世界的に話を共有し、平和を訴えることが大切と話していた。
その後の懇親会では、平和を願う歌を歌ったり、和太鼓演奏があったりと、ニューヨークにいることを忘れてしまいそうだった。
5月5日
○証言活動(9:30~15:00 @ニューヨーク育英学園)

活動最終日は朝から証言活動。行き先はニューヨーク育英学園という日本人学校。3限目に5・6年生、4限目に3・4年生、5限目に1・2年生が証言を聞いてくれた。順に上松さん、佐藤さん、廣中さんがお話されたので、私たち生協派遣団も初めて全員の方のお話をしっかりと聞ける機会となった。
それぞれの時間でしっかりと聞いて、メモをとって、質問をしてくれていた。後日、社会科の時間にこの日のことを踏まえて戦争について学ぶとのこと。日本にいても小学校ではなかなかそんな機会がないのだから、いい学ぶ機会を与えられているなと思った。 子どもの質問は、先日のグレースチャーチスクールよりもやはり素朴で単純。でも、それだけに答えるのが難しい。「飛行機はどんなのだったんですか?」「なんで飛行機の中で爆弾は爆発しないんですか?」「戦争はなんで起こったんですか?」自分がこの年齢だったら、こんな質問をしたのかなと思いつつ見ていた。その純粋な素朴な疑問を持つ心を忘れないでほしいと思った。
余談になるが、その日本人学校には幼稚園コースもあって、その子たちを見た廣中さんが「私、この年齢のときに被爆したんですよね」と何気なくつぶやいていらっしゃったのが、とても心に残っている。5歳で被爆して、心にも体にもずっとその傷を抱えて生きてきているんだと、そのときようやく理解した。
○夕食会
最終日の夕食は被団協と生協代表団合同での夕食会。被団協の坪井団長が「NPT再検討会議の結果はまだまだわからないが、今回の被団協・生協派遣は意義あるものであった」と挨拶をされたほか、生協派遣団の数名から感想発表と今後の決意表明がありました。同じ大学生協で活動している方は「今後の未来を担っていく若者として、平和への活動を頑張っていきたい」と決意表明。グループ内でも1週間の活動を通した振り返りを行い、最後の交流を楽しんだ。
以上、5日間の内容を大まかにまとめ、振り返ってみて感じたこと・考えたことを記しました。
振り返って
5月3日からニューヨークの国連本部で始まったNPT(核拡散防止条約)の再検討会議に合わせて、5月1日から5日までの活動日程で、大阪府生協連の代表として生協派遣団の一員に加えていただきました。今回の派遣を通して私が感じたこと・印象に残ったことを3点報告させていただきます。
1点目は、被爆者の方の証言活動がとても印象に残りました。5日間、3名の被爆者の方と行動をご一緒させていただき、被爆者の方々が私立中学校・日本人学校・原爆展において証言活動をされるサポートをさせていただきました。アメリカの子ども、日本人の子ども、ヨーロッパから来た家族連れ。みな証言をしっかりと受け止め、中には涙を流す方もいました。原爆の被害の状況を伝え、彼ら彼女らに今までとは違う視点から考えるきっかけを与えたことに、証言活動の意義を感じました。私自身も、改めて核兵器の恐ろしさを確認できたように思います。
2点目は、市民の草の根活動の広がりです。大勢の日本人も含めて、たくさんの国の方がNPTに合わせてニューヨークに入り、デモや署名、アピール活動を行っていました。国連に提出された署名は960万人を数え、デモパレードに参加した人は2万5000人と報道されています。たくさんの人が想いを同じにして集まれば、市民レベルでの行動でも世界にアピールすることができる。とても力強さを感じる日々でした。
3点目は、政治の難しさ…とでもいえばいいのだろうか。今回の派遣を通して、世界のほとんどの人が核兵器廃絶を願っているのだろうと思うほどの市民の力を感じた。それは、私のような一介の市民も、NGOの人も、地方自治体の首長も、国連事務総長も、おそらくは各国政府の人も、である。みんな、『個人』としては、核兵器廃絶を願っている。しかし、心のどこかでは、それは"難しい"と感じている。『国』となったときに、『国際関係』を論じなければいけなくなったときに、その難しさは生じる。核兵器をなくすには、まだまだ越えなければならないハードルがたくさんある、そんな気がした。
今回の代表派遣は、本当にとても貴重な機会の連続でした。大阪府生協連の代表として参加させていただけたことに、この場をお借りして改めて感謝いたします。これからの世の中を創る世代の一人として、今回の経験を発信していき、みんなが笑顔で暮らせる世の中の実現に向けて、自分の役割を果たしていきます。
大阪府生活協同組合連合会の代表として、NPT(核拡散防止条約)再検討会議に参加させていただきました。現地で実際に活動した5月1日~5日にかけての行動記録を下記に掲載いたしております。

5月1日
○結団式・昼食会(11:00~13:00 @宿泊ホテル)

今回の日本生協派遣団の主な目的が、日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の方のサポートであった。その合同の結団式兼昼食会が、宿泊ホテルのレストランで行われた。
被団協の坪井団長は「今年ほど核廃絶成功への機運が高まっている年はない」と期待をする一方で、「日本からは首相も外務大臣も来ない」と日本の対応に失望しているという内容の挨拶をされた。
滞在中は生協派遣団約7名、被団協約3名の10名グループで派遣期間中行動する。この昼食会はその顔合わせの会ともなった。私のグループはG班で、生協派遣団はよどがわ市民生協3名、パルコープ2名、大阪府生協連2名で構成され、被団協は広島で被爆された廣中正樹さん、佐藤敏彦さん、上松利枝さんの3名。自己紹介や今回の派遣に対する決意表明など、グループ内で交流し、和やかな場となった。
○NGO国際平和会議(15:00~20:30 @リバーサイド教会)
リバーサイド教会は、キング牧師がベトナム戦争の反対演説を行うなど由緒ある教会。多数のNGOの共催で、4月30日から5月1日にかけて国際平和会議『核のない平和で公正で持続可能な世界のために』が行われた。私たちはこの日の午後からの参加。分科会セッション"グローバルヒバクシャ"と全体会に参加した。
分科会"グローバルヒバクシャ"では、広島・長崎の"被爆者"だけでなく、核兵器に関連して被害を受けられた世界中の"ヒバクシャ"の声を聞き、核兵器の与える影響の大きさ・悲惨さを考えようとする内容だった。核実験での被害・ウラン鉱山での被害など、"ヒバクシャ"がいるのは全世界に35カ国。その中から、長崎での被爆者・第五福竜丸での被爆者・マーシャル諸島で被爆した方・そのほかロシアやアメリカのネバダで被害に遭われた方などがパネラーとして参加し、その想いを語られた。個々の詳しい内容には触れないが、この分科会のまとめとしては、『国際的なヒバクシャのつながりの立ち上げが必要』『ヒバクシャの高齢化が進む中で、証言をフィルム化することが必要』となった。
この分科会の参加者の半数以上が日本人だったことから、"ヒバクシャ"というのは核廃絶論の中で特別に重要な扱いをされていないことを感じた。同時に、私たち日本人も広島・長崎に執着しすぎていて、他国のヒバクシャのことを知ろうとせず、他国における核兵器の意味合いを考えず、被害国としての視点しか持っていないのではないかと思った。
全体会では藩基文国連事務総長や広島市長の演説を聴くことができた。事務総長は核兵器のない世界の実現に向けて自ら動くことを厭わない方なのだなという印象を受けた。核廃絶に向けた機運が高まっているとはいえ、国連のトップがあれだけはっきりと発言することは滅多にないことなのではないだろうか。核保有国への削減交渉を促したり、8月6日に広島に来ることを明言したり。このときの発言にどれだけの人が勇気づけられたのだろうか。
5月2日
○国連パス申請(9:00~11:00)

国連の入場パスを申請するために、国連本部へ。申請会場にはさまざまな国の人が長蛇の列。申請一人ひとりに時間がかかるため、2時間ならんだのちにこの日の申請はあきらめてホテルに戻った。
並んでいる間に周りの外国人と交流できたのは貴重な機会となった。同じグループ内には日本から持ってきた折り鶴などを渡したり、逆に缶バッジをもらったりという人もいた。
○デモパレード参加(13:00~17:00)
午後からは被団協の人たちと合流して、デモパレードのスタート地点であるタイムズスクエアに。気温30度を超える中、1万人以上の人々が集結。半数は日本人なのではないかと思うほど、日本人参加者が多かった。会場周辺は、前日に爆弾事件があったこともあってか、警官が多かったことが印象的。3時30分まではタイムズスクエアでの平和集会。さまざまな国の人が演説を行った。その中には、秋葉広島市長、田上長崎市長や長崎の被爆者である木村緋沙子さんなど日本人の姿も。3時30分からは、国連本部前までの約2kmを歩いた。踊りながら歩く人、楽器を演奏しながら歩く人、「No Nukes!」「No more ヒバクシャ」と叫びながら全体を扇動する人などさまざま。日本からの大勢の参加者も、それぞれの横断幕を手に行進していた。
このパレードに参加するなかで考えたことは、「デモ」の意味。そして、大勢の日本人がニューヨークに来ている意味。
市民レベルでの草の根活動の大切さは理解しているつもりではある。市民・NGO・自治体・政府・国連で、それぞれ担うべき役割が違うこともわかっているつもりである。しかし、(特に国際関係においては)世論と政治とは別の次元なのだということを直接感じた。
15,000人とも20,000人とも言われたこのデモパレード。暑い中4時間も立ち、叫び、歩いた意味とは何か。なぜ(私も含めた)日本人は「ノーモアヒロシマ・ノーモアナガサキ」と先頭に立って叫べないのか。なぜ白人に先導されているのか。なぜ雑談をしながら笑顔で行進しているのか。なんのためにこれだけの日本人がはるばるニューヨークまで来ているのか。日本から見ている人はどう思いながら見ているのか。同じ想いを持っているのか「遠い国の出来事」と捉えているのか。なぜこれだけたくさんの人が平和を想い・願っているのにそれを実現できないのか。
そんなことをずっと考えていた。
○PIKADONプロジェクト(20:30~21:00)
夕食後、昨日知りあったNGOの方が企画している小イベントに参加。街中で広島からのメッセージムービー(10分程度)を流し、ニューヨークの街の人に核兵器について考えてもらおうという企画。国連本部・核保有国大使館・エンパイアーステートビルなどマンハッタン各地を回っていく。私が参加させてもらったのは、国連前での上映。ここは公園だったために、映像を映せる壁がなく、みんなで白い壁を作った。
道行く人の中には立ち止まって興味を示したり、最後までムービーを見ていく人もいた。NGO関係の人は10人ほど、周りの観衆をいれても40人程度の小さな集まりであったが、その場はみんなで楽しみながら平和を祈る空気ができていた。これがNGOレベルでできる、草の根の平和活動なのだろうかと考えながらも、その一体感や雰囲気がとても好きだった。
5月3日
○証言活動(10:30~13:30 @グレースチャーチスクール)

生協派遣団・被団協のメイン活動となっている証言活動。私たちの班では3日目にして初めての証言活動となった。グレースチャーチスクールは、私立の幼稚園~中学校までの一貫教育校。1学年40人程度のそれほど大きくはない学校だが、教育レベルの高い名門校だというお話だった。今回、証言を聞いてくれたのは80人の中学生。
証言は、被団協を代表して廣中さんがされた。時間の都合上、かいつまんでの証言となったが、それでも中学生は真剣に、涙ながらに聞いてくれていた。原爆の恐ろしさ、原爆投下という行為の結果を知るには十分だったようだ。「今の広島は放射能などは大丈夫なのか」「お体に今もなお後遺症はあるのですか」など、質問も積極的に出た。
この中学校では、毎年6月頃に中学生10数人が広島を訪れている。今年訪れる予定の中学生と被爆者の方の交流もわずかな時間ながらあり、広島での再会を約束していた。
○国連パス申請・原爆展オープンセレモニー(15:00~17:00 @国連本部)
NPT再検討会議の開始に合わせて国連ロビーで始まった原爆展。2005年の前回に続いて日本被団協主催での開催となった。原爆展は50枚のパネルで広島・長崎の原爆被害や旧ソ連や南太平洋の"ヒバクシャ"についても展示している。この日は人も多くて時間もなかったため、国連パスの取得だけで終わった。
セレモニーでは赤阪国連事務次長・志位日本共産党委員長・秋葉広島市長・田上長崎市長・坪井被団協代表などが挨拶・テープカットを行った。赤阪国連事務次長の挨拶は、「藩国連事務総長が核廃絶を最優先事項と指摘している中で、国連において原爆被害の実情を伝えることはタイムリーで重要なこと」という趣旨であった。
5月4日
○証言活動(10:00~12:00 @国連本部)

2度目の証言活動は、国連内の原爆展で行った。2時間のうちに、上松さん、佐藤さん、廣中さんが1回ずつ証言をされたほか、原爆展に訪れた人と(通訳を通して)個々にお話をされていた。
講演会の形式をとると、通訳を介して行う煩わしさからか、聴衆は日本人ばかりになってしまうのが実際であった。しかし、常に一定層の日本人の聴衆がいたのは、ほかの国の方と比べて日本人の来場者が多かったからだろう。日本人とはいえ、広島・長崎の惨状を学ぶ機会や被爆者の方の証言を聞く機会は確かに少なく、今回このような形で被爆者の方と行動をご一緒させていただいていることが本当に貴重な機会であるのだということを改めて実感した。
一方で、個々にお話をするとなると、通訳を介して熱心に聞き入る外国の方も多かった。スウェーデン人の家族・オランダの家族・アジア系の国連職員など、20分ほど聞き入る来場者も何組もあり、被爆者の方の想いが伝わっているのだろうと感じた。
証言をする場所の少し外れたところにあった「折り鶴コーナー」の方が外国の方の人気があったのも象徴的だったように思う。また、このパネル展で最も印象的であったのは、30代のお父さんが小学校高学年ぐらいの女の子と一緒に1枚1枚パネルを見て回り、説明している光景だった。大切なことをあのように伝えていける親になりたいと感じながら眺めていた。
○国連見学(12:00~14:00 @国連本部)
この日の午後は予定が空いていたこともあり、国連内の見学を行うことができた。国連会場内で行っていた『平和市長会議』の傍聴と『国連総会会場』での見学をすることができた。
平和市長会議は午前中に藩基文国連事務総長が演説を行ったとのことで、活気にあふれていた様子。私が傍聴したのは終わりがけだったのだが、フランス・オバーニュ市長、イタリア・マッツァリーノ市長、長崎市長らの平和な世界に向けた意見や決意を聞くことができた。中でも印象的だったのはベルギーのモートセル市長の『この会議の場には、欠かしてはならない重要な2人がいない。それは、戦争を生き抜いてきた人と未来を担う若い人だ。』という発言と、イギリス・ダンディー市議会議員の『核兵器の維持にお金を費やす一方で福祉が疎かになっている。』という発言。どちらの発言も的を得ていると同時に、今まで私が持っていなかった視点で、とても心に残っている。
総会会場は、あいにく通訳機が壊れている席に座ったので(さらに登壇者が英語で話す人が少なかったため)、ほとんど聞くことができなかった。総会会場はアピールをするいわば記者会見場のようなもので、実質協議は別会場で行うということは知っていたが、思っていた以上に会場は閑散としていた。前日のイランやアメリカの演説のときにはもっと人がいたのであろうから、人気度なわけではないが、国際会議の舞台においても国によって注目される国とされない国の差がはっきりと表れるのだということを感じた。
○シンポジウム「生存の叡智」参加(18:00~20:30 @ペース大学)
ニューヨーク市立大学やペース大学などが共催する平和に関するシンポジウム。シンポジウム自体はこの日の朝から行っていたが、私たちは夕方の懇親会からの参加。シンポジウム自体が少し延びた関係で、秋葉広島市長と、田中利幸広島市立大学教授の演説を聞くことができた。秋葉市長は午前中にあった平和市長会議のアピールを行い、ジョンレノンの『一人で夢見てもただの夢だが、皆で夢見れば現実になる』という言葉を紹介し、核兵器廃絶に向けて頑張ろうというアピール。田中教授は、広島の平和記念資料館に"ヒバクシャ"はおろか長崎の写真すらないことを挙げて、広島の話を訴えるのではなく、世界的に話を共有し、平和を訴えることが大切と話していた。
その後の懇親会では、平和を願う歌を歌ったり、和太鼓演奏があったりと、ニューヨークにいることを忘れてしまいそうだった。
5月5日
○証言活動(9:30~15:00 @ニューヨーク育英学園)

活動最終日は朝から証言活動。行き先はニューヨーク育英学園という日本人学校。3限目に5・6年生、4限目に3・4年生、5限目に1・2年生が証言を聞いてくれた。順に上松さん、佐藤さん、廣中さんがお話されたので、私たち生協派遣団も初めて全員の方のお話をしっかりと聞ける機会となった。
それぞれの時間でしっかりと聞いて、メモをとって、質問をしてくれていた。後日、社会科の時間にこの日のことを踏まえて戦争について学ぶとのこと。日本にいても小学校ではなかなかそんな機会がないのだから、いい学ぶ機会を与えられているなと思った。 子どもの質問は、先日のグレースチャーチスクールよりもやはり素朴で単純。でも、それだけに答えるのが難しい。「飛行機はどんなのだったんですか?」「なんで飛行機の中で爆弾は爆発しないんですか?」「戦争はなんで起こったんですか?」自分がこの年齢だったら、こんな質問をしたのかなと思いつつ見ていた。その純粋な素朴な疑問を持つ心を忘れないでほしいと思った。
余談になるが、その日本人学校には幼稚園コースもあって、その子たちを見た廣中さんが「私、この年齢のときに被爆したんですよね」と何気なくつぶやいていらっしゃったのが、とても心に残っている。5歳で被爆して、心にも体にもずっとその傷を抱えて生きてきているんだと、そのときようやく理解した。
○夕食会
最終日の夕食は被団協と生協代表団合同での夕食会。被団協の坪井団長が「NPT再検討会議の結果はまだまだわからないが、今回の被団協・生協派遣は意義あるものであった」と挨拶をされたほか、生協派遣団の数名から感想発表と今後の決意表明がありました。同じ大学生協で活動している方は「今後の未来を担っていく若者として、平和への活動を頑張っていきたい」と決意表明。グループ内でも1週間の活動を通した振り返りを行い、最後の交流を楽しんだ。
以上、5日間の内容を大まかにまとめ、振り返ってみて感じたこと・考えたことを記しました。
振り返って
5月3日からニューヨークの国連本部で始まったNPT(核拡散防止条約)の再検討会議に合わせて、5月1日から5日までの活動日程で、大阪府生協連の代表として生協派遣団の一員に加えていただきました。今回の派遣を通して私が感じたこと・印象に残ったことを3点報告させていただきます。
1点目は、被爆者の方の証言活動がとても印象に残りました。5日間、3名の被爆者の方と行動をご一緒させていただき、被爆者の方々が私立中学校・日本人学校・原爆展において証言活動をされるサポートをさせていただきました。アメリカの子ども、日本人の子ども、ヨーロッパから来た家族連れ。みな証言をしっかりと受け止め、中には涙を流す方もいました。原爆の被害の状況を伝え、彼ら彼女らに今までとは違う視点から考えるきっかけを与えたことに、証言活動の意義を感じました。私自身も、改めて核兵器の恐ろしさを確認できたように思います。
2点目は、市民の草の根活動の広がりです。大勢の日本人も含めて、たくさんの国の方がNPTに合わせてニューヨークに入り、デモや署名、アピール活動を行っていました。国連に提出された署名は960万人を数え、デモパレードに参加した人は2万5000人と報道されています。たくさんの人が想いを同じにして集まれば、市民レベルでの行動でも世界にアピールすることができる。とても力強さを感じる日々でした。
3点目は、政治の難しさ…とでもいえばいいのだろうか。今回の派遣を通して、世界のほとんどの人が核兵器廃絶を願っているのだろうと思うほどの市民の力を感じた。それは、私のような一介の市民も、NGOの人も、地方自治体の首長も、国連事務総長も、おそらくは各国政府の人も、である。みんな、『個人』としては、核兵器廃絶を願っている。しかし、心のどこかでは、それは"難しい"と感じている。『国』となったときに、『国際関係』を論じなければいけなくなったときに、その難しさは生じる。核兵器をなくすには、まだまだ越えなければならないハードルがたくさんある、そんな気がした。
今回の代表派遣は、本当にとても貴重な機会の連続でした。大阪府生協連の代表として参加させていただけたことに、この場をお借りして改めて感謝いたします。これからの世の中を創る世代の一人として、今回の経験を発信していき、みんなが笑顔で暮らせる世の中の実現に向けて、自分の役割を果たしていきます。